普門寺の文化財

鰐口(神奈川県重要文化財)

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鰐口(神奈川県重要文化財)

室町時代暦応二年(一三三九)の作で、現在までのところ、神奈川県下では一番古く、昭和四十四年、県の重要文化財に指定されました。

全体としてはやや繊細な感じのする整った作風で、両面が同じように盛り上がっており、かなりぶ厚いものです。両肩に丈高の半円弧状の釣環(耳)がついており、一般のものと同じく片面平らの素環です。以前は観音さまの向拝に下げられ打ち鳴らされていたものです。

板碑

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板碑

昭和五十九年十一月、境内より十一基の板碑が発掘されました。元応二年(一三二〇) 〜文亀二年(一五〇二)までのもので、青石塔婆とも呼ばれ、主に秩父地方産の緑泥片岩が用いられています。鎌倉時代から室町時代に盛んに造られ、関東東北地方に分布していますが、付近ではその例が少ない中で、当時からこの寺が赫々たる霊域であったことを物語っています。

普門寺が古刹であることは、仏像やこれらの寺宝からも明らかですが、まだ未調査の古文書等も多数保管されており、調査が待たれるところです。

大モミジ

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大モミジ

歴代先師墓地にある大モミジは、神奈川の名木一〇〇選に選ばれた巨木で、十一月中旬真赤に紅葉し、美しい姿を見せてくれます。高さ十七メートル、胸高周囲二、七メートル。

飯縄大権現尊像

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飯縄大権現尊像

「飯縄大権現」の尊像は、火焔を背負い白狐に乗った姿は普通の権現さまと同じですが、高尾山にある烏天狗とは違い、不動明王の顔立ちをしているのが特徴です。額には武田菱の紋所を掲げ、武田信玄公に篤く尊信せられており、当山の栄隆を計らんがため信州飯綱山より持ち来たりて※奉祀せらるると伝えられています。

金銅地蔵菩薩立像

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金銅地蔵菩薩立像

江戸時代の作と伝えられ、総丈五尺、身丈二尺九寸の上質な唐銅で形造られ大きさ、古さ共に近在にまれな金銅仏といえるものです。

傘鉾

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傘鉾

観音様の御開帳の時に無病息災を願って近隣の人々が奉納します。

普門寺と村人の信仰

「中沢の普門寺」といえば、「飯縄さま」あるいは「観音さま」そして檀家にとっては「お不動さま」の霊場として常に近隣の人々の信仰の中心としてあがめられていますが、古くから日常生活の中にあっても、人々の集う場所として親しまれてきました。普門寺には村人と共にあった寺のようすを伝える話がいくつか残されています。

お舎利さま

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お舎利さま

宝暦三年(一七五三)川尻村小松の生まれで、生きながら成仏(入定行者、即身仏)を志す者がありました。三十四才の時に、普門寺の法印快誉と契約し、土中に入り断食して、念仏を唱えながら眠るように成仏したということです。—七月四日入室、八月二十一日夜中に往生し願成就しーと過去帳に記されています。

飯縄社に登る階段口の左側に二基の石灯龍を構えて※があり、中にはお舎利さまとよばれる石造阿弥陀如来座像が鎮座しています。この時の即身仏を※お祀りしたもので、元はおしゃり山と呼ばれる裏山にありましたが大正六年に遷座されました。

宝篋印塔

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宝篋印塔

仁王門を入って左側に建つ二基の印塔の右側の一基は「天保御用金事件」の犠牲者供養塔と伝えられています。

天保二年( 一八三一)、諸国飢饉、幕府の財政悪化の折、上川尻村に課せられた御用金をめぐって領主の用人と名主が不正を働くという事件が起こりました。不正に抵抗した村人は相談し、天保三年、勘定奉行、老中目付に駕寵訴という非常手段で訴え出ます。しかし関係した両者は共に捕えられ、伝馬町の牢で伝染病にかかり、事件の結着も見ず怨みを残して死んでしまったのです。しかしその後も村内の内粉は納まらず、弘化二年(一八四五)犠牲者達の十三回忌に至ってようやく和解が成立、三月、人々の冥福を祈り宝謹印塔が建立されました。以後三月二十八日を命日として、明治維新まで関係者、上川尻村一統は施餓鬼会を営んで供養を捧げたということです。

草競馬

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境内の枝垂れ桜

例年四月十四日は観音様の御縁日、桜の花の咲きほこる境内では、古来から法要に続いて近在の農耕馬を集めて草競馬が催されていました。境内を一段下がって広く畑を囲む道路がその名残りで、以前は直線の鉄砲馬場でしたが、昭和十四年、先代(亮彦和上)が畑をつぶし一周馬場としました。

一等になった者には優勝旗が贈られたということですが、戦争中は旗の布さえ手に入らぬ困難の中、檀家の人々の力添えで続けられました。しかし、戦後は農耕馬も少なくなり、昭和二十二年四月十四日、当時の厚木基地司令部の方も招待して行われたのを最後に、草競馬は終わりをつげました。

仁王門と仁王さま

観音堂正面に建つ仁王門は、江戸の頃は権現堂に上る階段の途中にあったということですが、現在の場所に安置されたのは二百四十年以前と伝えられています。

左右二体の仁王さまは、運派系の仏師、全慶の作といわれ、顔立ち、姿とも力強さがあふれる作風です。今から三十年程前、ミツバチがこの仁王様に巣をつくり、巣を取るために仁王様のお腹を開き、修理修復がほどこされました。

仁王門東側には、かって鐘楼堂がありましたが、戦争中に供出され、その後お堂も伊勢湾台風で倒壊。今はその石積みだけが残されています。正面の津久井城にまで響き渡ったであろう梵鐘の余音が、今にも聞こえて来るような佇まいです。

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仁王さま(左側)

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仁王さま(右側)

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仁王門

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仁王門階段